日本ブログ

第1週 : 1月28日 - 2月3日

記述完了: 1月 28日, 29日, 30日, 31日, 2月 1日 & 2日

1月28日

いざゆかん。本日わたしは家族を残して日本へと旅立つ。
少なくとも8ヶ月、おそらく9ヶ月はアメリカに戻らないだろう。ところでご存知だろうか。
ばかかと思われるかもしれないが、わたしにとっては世界一周の旅がひそかに忍び寄ってくるという感じだったのだ。
このところ周囲でいろいろありすきて、日本へ行くことの意味を真剣に考える時間がなかった。それがよかったともいえる。

契約を交わしたのが3ヶ月前だった。
その3週間後、わたしたちはテキサス州ヒューストンのちょい郊外からジョージア州アトランタのちょい郊外へ引っ越すことに決めた。
わたしたちのことを「ちょい外側」の人間と思っていただいて結構。というか、真の郊外型なのだ。
妻はターゲットやT.J.マックス、マーシャルズがないと生きてゆけない人種である。
どこに住むことになろうとこれらの店舗の存在が最低必要条件となっていた。
もちろん彼女はそれなしの生活がどういうものであるか、ほどなく思い知ることになる。

わずか数日の間にわたしたちはアトランタ郊外の家を落札した。
おかげで発狂モードに入らざるをえない。
ヒューストンの家を売却する準備はほとんどできていなかったのだ。
そこにアトランタの家の契約がふりかかってくる。手順はみなさまもご存知だと思う。まず不動産業者を見つける。
続いて8年半住んだ家のあちらこちらを修復する。
そして売るのに最悪の時期、物件もろくに動かない市場で売却にかかるわけだ。
さらにわたしの頭上には日本行きの旅行がぶらさがっているという始末である。
さてあなたが神慮を信じない人間であったとしても、以下の話を読めば信じないわけにはいかないだろう。
不動産業者を雇ったら三日で家が売れた。
しかも、すべては込みこみ価格という交渉になったため、家の修繕をしなくて済んだのである。
おかげでどれほど頭痛と出費を回避できたことか。
わたしたちは12月27日にアトランタ関係を片付け、29日にはテキサス関係を始末できた。

すなわち日本へ行くまえ、家の引越し用に一ヶ月かけてよいことになった。
わたしは自分の持ち物を他人に預けるのがどうにも気持ち悪い人間である。
原因はおそらく8,9歳の頃、父がわたしに語った物語にあると思う。
父は20年間にわたって海軍軍人であったが、ヴァージニアからニューヨークに引っ越す際に引越し業者を使ったことがある。
そして車のリムを盗まれたという。
子供の頃に聞いたどうでもよい話が生涯心に残ってしまい、大人になってから人生を左右するというもの驚異であろう。
ヒューストンからアトランタまで自力で引っ越すと決めたのも、父親から聞いた話が原因になっているのは間違いないのである。

妻とふたりで寝室が四つバスルームが三つと半分という我が家からダンボールに詰めた荷物をすべて運び出し、冷蔵庫を含むすべての家具を運搬する。
それを三基のコンテナ(8×16×8フィート)に詰め込むのである。
すべての箱に自前の錠前(父の助言に感謝)をとりつけたのち、運搬業者を呼んでアトランタまで運ばせる。
家一軒分の荷造りとて、いまこうやって回想して数語にまとめる分には簡単である。
引越しはそれ自体結構な運動であった。朝起きると節々が痛んで疲労困憊という日もあった。
今シーズンの速球にいい影響があればよいと願うかぎりである。
そうなれば今シーズンのオフには友人いや他人であっても引越しを手伝ってやるつもりだ。
この約束は覚えておいていい。

こんな話をするのも、自分が人生の選択をして日本に行こうとしている件をあまり考えずにいた理由を知ってもらいたいからだ。引越しに加えて筋トレをし、投球もし、子供たちを学校に送り迎えし、新しいホームタウンの道順を覚え、電気・水道・電話等を開通させ、新しい運転免許証を申請する。
すなわち新しい州に引っ越すといろいろあるわけで、家を離れて国を出る前の4週間でできるだけのことはしておきたかったのである。

実際、昨日の朝まで、すなわちフライトの24時間前になるまで、日本に行くという実感がなかった。
昨日の朝になって、ひしひしと迫ってきたのだ。
もちろん一番つらいのは妻と二人の子供、7歳と5歳を残して旅立つことだ。
一ヶ月後に合流することになっているが、それで別れが楽になるというものでもない。
野球人生が提供してくれる素晴らしい物事数あるなかで、家族としょっちゅうばらばらになるのは最大級の欠点といえる。
昨シーズンが終わって家に帰るとき、家族に会うのは一ヶ月ぶりだった。どれほど家に帰りたかったかお知りになりたいか?
ポストシーズン進出をかけたトレド・マドヘンズ相手の一発勝負プレーオフに負けたのち、わたしは17時間ぶっ通しで車を運転して帰宅した。
子供たちはわたしに会えて興奮していた。
子供たちにただいまを言うと、息子は妻に向かって、ママ、パパがもう野球をしないですむようにジョブス・ドットコムで仕事を見つけてあげてと言った。
その頃息子はまだ6歳で、ほんとうにジョブス・ドットコムがあるとはわかっていなかったと思う。
そのとき、わたしは決心した。もう息子をこんな目にあわせてはいけない、と。
子供たちは今後ホームスクーリングを受けるか、あるいはわたしがプレイをする街がどこであれ、そこの学校に通わせよう。それが日本であってもだ。

日本の春季トレーニングはアメリカとは若干異なる。二部に分かれているのだ。
第1部は3−4週間、キャンプ地で行われる。わたしの場合はミヤザキである。ここで練習をして紅白戦を行う。
続く第2部はホームであるフクオカに戻り、一ヶ月間ほど他の日本のチームとオープン戦を行う。
チームのほうから、ミヤザキには家族を連れてこないでほしいと言われていた。この時期はチームメイトとの親睦を深めてもらいたいからとのこと。日本では「チームの和」という言葉がアメリカよりもずっと重みを帯びていると実感する。
ゆえにわたしとしては、家族に数週間自分たちだけでやっておいてくれと頼むしかない。
子供たちは不機嫌そうだったが理解してくれた。
わたしが野球選手であるあいだは、妻は一年のうちほぼ4ヶ月間、事実上のシングルマザーとなる。彼女は実にすばらしくこなしてくれる。
わたしも年を重ねていろいろ苦労するうちに、シングルマザーや軍人の家庭に大いに共感するようになった。離れて暮らす家族は家族ではないのであって、子供にとっても両親にとってもきわめて難しい状況になりかねない。
磐石の如き妻がいなかったら、わたしにはまず無理だった。彼女はわたしのあらゆるプレッシャーを取り除いてくれる。

わたしは海外旅行に恐怖心を抱いてきた。
なぜ怖いのか、どうしてそうなったのか、ほんとうのところはわからない。おそらく言語の壁に関係するところが大きいと思う。
やむなくアメリカを離れたときもあるが、どれも野球がらみだ。
モントリオール、トロント、ヴァンクーヴァーには旅行したことがある。一回だけ、MLB選手協会の年次総会でデトロイト・タイガーズを代表してプエルト・リコに三日行ったこともある。
せいぜいがその程度だったわけで、今回の日本行きはどう控え目に見てもこれまでとは比較にならないのである。

日曜日、午前5時。わたしはアトランタの自宅をあとにした。
予定では月曜日の夜8時10分にフクオカに着く。日本時間は東部標準時より14時間先行しているから、今回の旅行でわたしは人生のまるまる二日を失うことになる。
もちろん景気のよい話もないわけではない。フクオカ・ソフトバンク・ホークスはわたしが乗るフクオカまで3本のフライトのうち2本をファーストクラスにしてくれた(その費用1万ドル)。
最長フライトとなるシカゴ発トーキョー行きは13時間かかる。ファーストクラス・ラウンジはわたしにとってもまったくの初体験なのだ。プライベート・ラウンジに極上ホテルクラスのバスルームにスシにサンドウィッチに世界中の缶ビール--いや、悪くない。
出発前にビールを飲もうかと思ったが、まだ午前10時である。最終的にあきらめることにした。
すなわちわが人生にも無料のビールしかも輸入物に手を出さずに終わるときが到来したのだ。
心底年をとったものだと痛感する。

シカゴ発の便は少し遅れた。正直いってどのくらい遅れたのかはわからない。
無難な言い方をすれば、それどころじゃなかったのだ。
空港まであと4分の1あたりにきたところで、寝室のTVのうえに結婚指輪と腕時計を忘れてきたことに気がついた。
携帯は持っていたが、飛行機の座席についてからメールを打とうとしたらフライト・アテンダントに叱られた。
まだ他の客は搭乗中だからいいじゃないの、お願いと言ってみる。
しかし彼女はそれは素晴らしい笑顔を浮かべつつブロークン・イングリッシュで搭乗後は携帯の電源をお切りやがれと通告してくれる。客室扉が開いていようが閉まっていようが関係ないという。
幸いなことに、電話をおかけになりたければ飛行機から出てジェットウェイのほうへ行きやがれと言ってくれた。
まさにドンピシャのタイミングだった。ちょうどそのとき警備会社から電話が入り、自宅のアラームがオフになっていて、妻とも連絡がとれないといってきたのだ(そのときは教会にいた)。
しかしわたしはなにが起きたのかわかっていた。彼女はアラームを逆方向にセットするしかなかったのだ。うちには猫が2匹、犬が1頭いるため、動体探知機にバイパスを設ける必要があった。
わかりやすくいうと、おなじみ家の周りで2対1のおっかけっこがアラームを発動させてしまう。これまでも2回実際にあったのだ。

アラームの件は数分で片がついた。これでいよいよ離陸となる。
驚くべきことに、わたしはあっというまに眠ってしまった。
飛行機の座席におけるぎこちない睡眠姿勢を考えれば、これは驚異である。
かなり熟睡したのち、不意に目を覚ます。そしていまだ離陸していないと知ったとき、わたしがどれほど驚いたかご理解いただけるだろう。
13時間フライトにおけるわたしの人生初昼寝はすでに終わり、いまだ過ごすべき13時間は残ったままだったのである。

しかしファーストクラスにいるのに寝る必要などあるだろうか? 教えてあげよう、機内食は素晴らしかった。
その正体は全日空が提供する7品コースである。伝統的な日本食からなる「懐石」もあれば、より西洋風のアラカルト・メニューもあるし、ベジタリアン/低カロリーコースも選べるという趣向なのだ。
これからの7ヶ月間は日本食がメインになると思ったので、いまから始めようとわたしは考えた。わたしが日本食を注文したのでフライト・アテンダントは驚いたようだった。さらにわたしは食事の途中で食材に関して質問をし、とてもおいしいよとコメントしてやった。彼女はいよいよ驚いたのである。

とはいえ一見すると日本食コースは人をして怖気づかせる要素に満ち満ちていた。
まずゼンサイから始めたが、ものはスモークサーモンのルラード、骨抜きアナゴの焼いたの、鰊の卵巣のマリネ、焼き昆布煮しめと卵テリーヌを巻いたやつだった。
いまだにやつらの正体に関しては確信が持てないのだが、とにかく美味しかった。
頭部を切り落としたメダカみたいな小魚すら食べた。そいつには何かが詰めてあって、簡単に呑み込めた。
妻はこういう日本料理はトライしたことすらないだろう。スシが大好きと日頃言ってはいるが、彼女がいうスシはカリフォルニア巻きなのだ。
日本にはカリフォルニア巻きなどないと聞いている。妻は日本でいろんな食べ物に挑戦したいと言い張っている。お手並み拝見である。

続いてニモノワンである。茹でた食べ物という意味らしい。
まず鴨の胸肉の煮たやつ、ユバ(トーフのクレープ)、それに季節のシーフードのつけ合わせという面々だった。
すべて美味しかった。唯一の問題は、なにを食べているのか不明である点だ。
ともあれメニューを眺め、口の中に入れているものに見当をつけ、美味であることを祈って呑みこむ。しばしば皿の上のものが食物なのか飾りなのか判別しないこともあった。
そのたびにわたしは隣に座っている年配の日本人紳士をそれとなく盗み見し、かれがなにを食べるか食べないかを確認した。かれの箸使いも真似しようと試みたが、こちらは悲劇に終わった。

続いてスシが出た。リストでは「オシノギ」とある。3ピースが供せられた。サーモン、なんかオレンジ色の魚卵がのったの、それに大変おいしい白身の魚だった。
これはなんですかと質問してみたが、フライト・アテンダントの答えが理解できなかった。何度も繰り返してくれたのだが、どうにも理解できず、ゆえに読者の皆様にもお伝えできない。

一緒に出たのが「タキアワセ」、「シュサイ」(メインコース)、それに「スノモノ」だった。
タキアワセは薄い醤油で煮たクルマエビとホタテガイ、薄い醤油で煮たフリーズ・ドライド・トーフ、さらにいろいろな煮野菜という顔ぶれである。
メインコースは特製の醤油で煮たロブスターであり、スノモノは塩茹でのタコと土佐酢を使ったハマグリだった。
わたしはロブスターを箸でやっつけるのは不可能と決断した。隣の紳士の食べ方を参考にしたかったのだが、かれがロブスターにとりかかるにはまだ時間がかかりそうだった。
ついにわたしも待ちきれなくなり、片手に箸2本、もう片手は自分の指でロブスターにとりかかった(だれも見てなかったと思う)。
このコースにはさらに炊き飯、ミソ・スープ、ピクルスがつく。ピクルスはキュウリではなく、わたしが知るいかなるピクルスにも似ていなかった。
わたしはすべてをたいらげ、さらに別腹としてアズキヴァニラアイスを味わったのであった。

以上のディナーを消化しつつ、わたしはいろいろな思いをめぐらした。
日本の機内食はアメリカの機内食(昔はよく出していた)と同様に評判が悪いのだろうか? 
もしそうであれば、食の観点からいってわたしは日本でずいぶんとおいしい目にあいそうである。
いま食べた機内食ならばこのシーズン中ずっとそれでもまったく満足できるからだ。

さらに別の思いも頭をよぎる。この先ふたたび長時間を普通席で飛ぶことがあるだろうか?
この種の贅沢がばからしいのはわかっているが、請求書がこちらもちでないのも事実だである。
これまで正規料金のファーストクラス・チケットなど一度も購入したことがない。
そんなまねをすれば、クレジットカードの請求書がきたときにご機嫌でいられるわけがないだろう −− そうなにかがつぶやくのである。

機内に乗り込んだとき、フライト・アテンダントのひとりがパジャマ一式とおぼしきものを差し出してきた。
灰色っぽい青色のボタン掛けの上着にだぶだぶの寝巻きズボンだった。
わたしは丁重にお断りしつつ内心思ったのである、「わざわざ服を脱いでこんなエアライン・アウトフィットに着替えるやつなんかいるのか?」。
すぐにわたしは回答を得た。数分後、三十歳代の男性がパジャマ、スリッパその他のフル装備でトイレから出てきた。
勇者だ。

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1月29日

東京に着陸して大変興奮した。13時間のフライトがあっという間だったのも意外だった。
ほとんど眠れなかったが、ファーストクラス座席のおかげで楽ちんだった。
ナリタ・エアポートに向かって降下していくにつれ実感がわいてきた。
海外旅行恐怖症を克服できたのかどうか、真の試験がはじまるのだ。
いよいよ着陸となったとき、東京の繁華街が見えないかと思ったが駄目だった。
東京はナリタ空港から快速列車で一時間以上かかる場所にあったのだ。

空港の外観にはまったくぴんとくるものがなかった。
冬場のニューアーク、あるいはラ・グアルディア空港といった雰囲気だった。
ものすごい驚異の建築物を期待したのも変といえば変である。
だがわたしはなにか特別のもの、少なくともアメリカとは違うなにかを期待していたのだ。
しかしひとたび飛行機を降りてターミナル・ビルに入るや、ナリタ空港が他のアメリカの空港とまったく違うことを思い知らされた。この場所はちりひとつ落ちておらず、あらゆる標識、目印の類が明確に描かれている。
ナリタの誘導指示はきわめてわかりやすい。なにせこちらはフライトの途中、空港で迷子になったらどうしようと心配していたのだ。
空港の出口がわからなかったらどうしよう?
手持ちの携帯はナリタじゃ使えないし、助けてくれそうな人の電話番号も知らない。
下手をすれば映画『ザ・ターミナル』でトム・ハンクスが演じたヴィクトル・ナヴォルスキになってしまう。
しかし飛行機を降りるとすぐにすべては杞憂となったのであった。
入国管理局、通過。手荷物、受領。税関、通過。福岡行き国内便に乗り換える際の手荷物再検査、終了。以上が20分間で終わった。なにもかもが近場にあり、またナリタの係員たちが手際よく助けてくれる。
入国管理も驚くほど迅速だった。
係官がわたしのパスポートを受け取る - ヴィザと入国書類をチェック - ホチキスの針を取り除く - なにかをミシン目にそってちぎる - それをふたたびホチキスで留める - パスポートにスタンプを押し、シールをはる - はい、次の人。
その手つきの素早さから判断するに、おそらく前職はスリー・カード・モンテのディーラーにちがいない。

フクオカ行きの便にチェックインを済ませて搭乗ゲートに向かうと、アメリカ人チームメイト2名がすでに待っていた。
アダム・ハイズデュとリック・ガトームソンである。
四人目のアメリカ人選手、かつてのヤンキース一巡目指名であるブライアン・”バック”・ブキャナンが数分遅れでやってきた。
トーキョーでアメリカ人の仲間に会うのはうれしいものだ。アダムとわたしは短期間ながら1995年にレッズ傘下でチームメイトだった。バックとはお互い所属チーム同士の対戦はあったが実際に会うのはこれが初めてだ。
そして正直にいうが、リックのことはホークスと契約するまで名前すら聞いたことがなかった。
だがかれは過去2シーズンをヤクルト・スワローズでプレイしており、われわれとしてはすでに日本経験を持つ仲間がいて、来るべきシーズンをともに過ごせることは本当にありがたい。

リックの話は興味深いものがある。
リックはもともと1997年にパドレスと契約していたが、2001年のシーズンを怪我で棒に振り、ふと気づくと自由契約になって独立リーグで悪戦苦闘するはめになった。
そこで2年を過ごしたのち、2004年にマリナーズ傘下でチャンスを貰った。
その冬はヴェネズエラでプレイし、素晴らしい成績を収めた。
それが日本に行くチャンスにつながり、2年後にはホークスと7桁年俸の2年契約を結んだのである。
野球はなにがすごいといって、このゲームを続けているとどこに連れていかれるかまったくわからない点である。
独立リーグはたいていの場合、プロ経験のある選手の最後の悪あがきの場所である。
そしてわずか3年で独立リーグから這い上がり日本で契約を結んで人生を一変させるやつがいるわけで、このゲームに出来るかぎりしがみついていたい男たちの多さもうなづけるだろう。

フクオカへのフライトは長かった。とにかく着陸してホテルに転がり込みたかった。
だがフライトは永遠に続くかのように思えた。ようやく着陸して荷物を受け取ると、チームの通訳3人が出迎えくれた。
そして--うそじゃないぞ--カメラマンが15人から20人ほどいた。
わたしもこれまで巨大商業都市でプレイをしてきた。ニューヨークでは両チームに所属している。
しかしどちらのチームにあっても注目の中心になったことは一度もない。そういうわけでものすごいスピードでフラッシュを焚かれるとびっくりしてしまう。
ましてわたしが行っていることは荷物を日本版スマート・カートに積んで車まで運んでいるだけなのだ。
だいたいよそいきを着ているときのわたしは写真うつりが悪いのである。
それが22時間の長旅のあととくれば到底見られたものじゃないはずだ。
しかしカメラマンたちは気にしていない様子だった。
かれらの被写体は疲れきった四人のアメリカ人であり、その望みはただリラックスして荷解きし、なにか食べたいというだけの野球選手だったのだから。

ミヤザキに出発するまで2日ほどあるため、ここに泊まっておけと放り込まれたホテルがほんとうに美しかった。
それはシーホーク・ホテルと呼ばれており、われわれのホームであるヤフー・ドームに隣接している。
くつろぐにはもってこいの場所だ。
わたしは疲れ果てていて外出する気も起きなかったので、ルームサービスを頼むことにした。
日本のルームサービスは高いぞ、とリックが警告してくれていたが、今晩くらいは贅沢してもいいと思っていた。
しかしそれほどひどくもなかったのだ。
わたしはピザと--ニューヨーク以外でこれを注文するのはリスクを伴う--ハンバーガー・ステーキを注文した。
ピザは驚くほどおいしく、ステーキは基本的にはポーチド・エッグをトッピングしたハンバーガーだった。
これにはちょっと呆然としたが、だからといってステーキと卵を食べないわたしではない。
ここシーホーク・ホテルではきわめてユニークなことが行われているらしい。
ルームサービス料金はメニューにある金額そのままだった。
翌朝メニューに3200円と記してあった「アメリカン・ブレックファースト」を注文したが、請求された金額も3200円きっかりだった。サービスチャージなどはなく、自動チップもなければ「付加」チップ欄もない。
記載通りの料金というわけで、面白いコンセプトである。

ここ日本のノー・チップ制度に慣れるのはかなり難しそうだ。
サービス要員に対して要求された以上の金額を払うことはかれらを侮辱することになるそうだ。
しかも皮肉なことに、チップ不在にもかかわらず日本のサービスはアメリカのよりもずっといいのである。
日本人はその立場にかかわらず自分の仕事に誇りを抱いているのであって、わたしとてそれを感じ取るのに大して時間はかからなかった。
すがすがしい感覚である。

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1月30日

午前8時、チームの通訳たちと会い、監督やチームメイトたちと顔あわせをするためにドームへと向かう。
さらにチームスーツ(後述)の採寸、その後記者会見という段取りである。
ホークスの監督は伝説の王貞治、日本のホームラン記録保持者である。
わたしはこれまでわが野球世代の大傑物たちすなわちスパーキー・アンダーソン、ボビー・コックス、ジョー・トーレといった面々の下でプレイする幸運に恵まれてきた。
このリストに王監督を加えられるというのは真に名誉なことであり、来るべきシーズン、監督のもとでプレイするときが待ち遠しい。
野球界のビッグネームたち、あるいは人生のビッグネームたちはみな一種のオーラを放っている。王監督も例外ではない。

わたしにとって今年最大の仕事のひとつがチームメイトと知り合いになることである。
この朝、クラブハウスで同じスーツ姿(後述します)の男たち多数に会って圧倒された。
しかもかれら全員、なんとも発音しにくい名前の持ち主である。
シーズン中、一軍登録は28人のみだが、ホークスの春季キャンプは総勢70人で始まるのだ。
すなわちメジャーリーグのチームよりも少し多いくらいである。
そこへ数名のフロント、コーチ陣を加えて合計90人近くの、生まれて初めて耳にする日本人の名前とくれば、これはもう大変だ。できるだけ早くみんなの顔と名前を一致させたいと思う。

簡単なチーム・ミーティングがあり、監督のお話があった。
新人選手が紹介され、それからチーム・キャプテンが全員を前に演説する。
優勝以外はすべて失望と見なすという宣言は実に興奮ものだった。
いろいろ伺うに、このチームには才能ある選手が多数いるという。あきらかに先発ローテーションは傑出している。
そこに王貞治という尊敬を集めてやまない監督をいただくとなれば、これはきわめて競争心に富む集団となるであろう。

その部屋にいる選手、コーチ、フロント全員のなかで、ネクタイを締めていないのはわたしだけだった。
チームメイトのまえで挨拶をしたときは、この場にいられて興奮している、みなさんから日本野球を学びたい、そして最後に、あしたはちゃんとネクタイをしてきますからとやってのけた。
通訳を通してしゃべるというのは得がたい経験である。ジョークを言ってから、果たしてちゃんと訳されるかと待つ時間は異常に長く感じられる。
さいわいなことにこのジョークは通じた。
他のネタはおそらくすべるだろうが、とりあえずつかみはよしとできたことが嬉しい。受けたネタは心に刻むのである。

記者会見のほうはごく標準的だった。
ただひとつ普通でないのは、たった一人の記者が質問をするという点である。
また会見に多数の人間が出席していたのにも驚かされた。
カメラマンが12人ほど、記者が15から20人、TVが8局いた。
ホークスが日本で大変な人気チームであることがうすうすわかってきた。
ファンは心のそこからこのチームを応援しているのだ。
昔はそれほどではなかったそうだ。1995年に王監督がチームを引き受けて以来、すべてが一変したとのこと。
ホークスは1999年と2003年に日本シリーズを制覇している。

記者会見ののち、自分たちが住むことになるアパート見学をした。
これまでの日本経験のなかで、この部分だけが唯一の失望である。
居住空間は狭いぞと言われてきたわけで、無難な言い方をすれば「その言葉はうそではなかった」。
当のアパートは狭く、やや古く、家賃は高かった。
とはいえ家賃は球団持ちなのであるから文句はいえない。
明るい話もないわけではない。このアパートは子供たちが通うことになるインターナショナル・スクールのすぐそばにあるのだ。
これなら生活も少しは楽になる。
いまのところ、わたしが直面すべき最大のチャレンジは居住空間と車の運転である。
つまり決して悪い暮らしではない。

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1月31日

今日わたしたちは複合キャンプ施設があるミヤザキへ飛ぶ。いろいろありすぎて丸一週間ボールに触っていない気分だ。
それでフィールドに出たくてしょうがない。フライトは45分程度、定期便だった。日本の野球チームの移動ではこれが普通なのだ。
メジャー・リーグではチームのチャーター便を使うが、まあそれはいい。
1995年、レッズの一員としてわたしがはじめて飛行機に乗ったときも定期便だった。それはそれでかっこよかったと思っている。
飛行機の後部座席をすべてチームで占領し、中央シートは空けておいた。わたしはブレット・ブーンと同じ列に座っており、まさに雲のうえの9人という気分だった。
ブーンのおかげというよりも、メジャーで最初のロードだったからだ。もちろんすぐに、定期便がメジャーでは格落ち扱いであることに気づかされた。
みんなぶうぶう言っていたからだ。しかしこれはマージ・ショット時代のシンシナティ・レッズの話であり、当時はそんなものだったのである。

今日のフライトにはチームの主力は乗っていなかった。四人のアメリカ人選手とスタッフ15名ほどである。
日本人選手たちは福岡の神社で今シーズンの必勝祈願を行っており、あとのフライトで合流するとのこと(神道については後述)。

春季キャンプではチーム全員が同じホテルに宿泊する。これもメジャーとは違う点だ。
アメリカでは、選手はチームが借りるホテルに泊まってもよいし、一軒家やコンドミニアムを借りてもいい。
で、日本での待遇が悪いのかというととんでもない。まったく逆だった。わたしたちが宿泊するホテルは豪華そのものだ。
ミヤザキのシェラトン・グランデ・オーシャン・リゾートである。わたしが泊まる31階の窓からは絶景ともいえる太平洋が広がっている。
レストランもショップも軒を並べているし、地階には温泉もあり、トム・ワトソン・ゴルフコースもある。
他の商業地域にはタクシーで20分というところだ。

ホテルの部屋に入るとすでに荷物がほぼすべて届けられていた。さらにチーム支給のスーツケースがあり、ミズノから届けられた衣類関係のバッグが3個ある。
衣類その他にはほぼすべてチームのロゴが入っており、球場ではこれを着ることになっている。またここミヤザキは寒いので防寒具の類も支給された。
スーツケースとバッグの中身はというと、ウィンターハット、手袋、ネックウォーマー、下着、靴下、スウェットスーツ、アンダーシャツ。もうないものはないという有様だ。
もちろんわたしのユニフォームも含まれている。今日貰ったものはベースボールパンツが4枚、白のジャージが2枚、黒のジャージが2枚、アウター・ジャケットが12枚。
いや、ミスプリントではない。いろんなジャケットが12枚なのだ。分厚いコート、フリースのプルオーヴァーの半袖に長袖、白いジャケット、黒いジャケット。
ようするに、わたしが言いたいことは、これはまったく正気の沙汰じゃない、と。全部着る機会などあるはずないだろう。
しかもすべての衣類にわたしの背番号あるいは苗字が入っている。

ユニフォームを貰ったという点は驚くに値しない。来日前から日本野球に関していろいろ聞いていたが、選手がユニフォーム姿でホテルを出るという話があった。
まるで学生野球のように。それはあまりにアマチュアすぎる、と典型的アメリカ人なら思うだろう。
どんなレベルであれプロ球技の選手ならクラブハウスで着替えるというのが常識なのだ。だがこれもたいした問題ではなかったのである。この件はあとで話すことにする。

春季キャンプ施設にチームが集結するや、王監督のもとチーム・ミーティングが行われた。
成功を収めるには基本に忠実な野球をしなければならぬ、と監督は強調する。この一節はわたしの心に響いた。
レンジャースとツインズのキャンプに参加したとき、バック・ショウオルター、ロン・ガーデンハイム両監督から同様の言葉を聞いたことがある。
王監督は全選手相手に演説をし、また投手陣、野手陣、捕手陣と個別に声をかけられた。
とりわけわたしが興味深く思ったのは、王監督が投手陣に対して内角攻めを要求されたことである。
いつでも打者の懐を攻められるようにしてほしい、内角攻めを恐れるな、と。これには大いに励まされた。
過去数シーズン、わたしは内角攻めの大いなる信奉者となっていたからだ。
2004年ブレーブスにいたとき、投手コーチのレオ・マッツォーネは外角低目教の宣教師だった。わたしが左打者に内角を投げると機嫌が悪くなった。
かれの考えでは、あまりにリスクが大きすぎるという。プレート側に外れると打者にとっては絶好球、ホームランの可能性が高まるわけだ。
もとよりわたしも内角攻め以外にピッチング方法がないとは思っていない。
しかしわたしの実感としては、このところ打者たちも外角球を流す技術をどんどん進歩させているのだ。
ゆえに内角球を増やす時期にきていると思っている。20年前はいまほど流し打ちのホームランを見る機会はなかった。年長者に質問してみるといい。
今日の打者たちはより力強く、より巧妙になっており、パワーをこめて流し打つ技術を習得している。
アレックス・ロドリゲス、ジム・トーメ、マイク・ピアッツァたちが古典的サンプルである。かれらは有り余るパワーで流し打つ。

2003年レンジャースのキャンプに参加したとき、投手コーチのオレル・ハーシュハイザーとまさにこの話をしたことがある。
かれは投手陣に対して、ストライクゾーンの外側のコントロールを身につけろと叱咤激励していた。
しかしわたしにも異論があるわけで、選べるものなら内角球を自在に操るコントロールを身につけたい。もちろん、言うは易し、であるが。
内角のストライクゾーンぎりぎりを常時突くことができれば、打者を常時警戒モードに追いやることができる。
そうなればプレートから外側の球はそれほど正確でなくともよくなる。
打者がプレートにかぶさって構えなくなるから、外角の失投も見逃される場合が多いのだ。
打者のほうも、いつなんどき内角が来るかわからないので、準備するしかないのである。

わたしはピッチング・プランを組み立てるとき、同僚の大打者たちと話をしてかれらのバッティング哲学からフィードバックを貰うようにしている。
かつてA-ロッドがわたしに語った言葉を覚えている。「内角に投げないとする。内角の速球を心配しなくていいとなったら、きみなんかイチコロだよ」。
わたしたちはテキサスとニューヨークで3シーズンにわたりチームメイトだった。そしてかれが有言実行するさまをまのあたりにした。
しかし驚くべきことだが、わたしの内角哲学はときにメジャーで抵抗勢力に出会うのである。
2004年ヤンキースでプレイしたとき、わたしは幸先のよいスタートを切った。しかしカルロス・デルガドにホームランを打たれた。
2004年から5年にかけて、わたしからホームランを打った左はかれだけだった。
ともあれデルガドに一発食らったあと、某コーチがやってきて、ジョー・トーレ監督がご機嫌斜めだと告げた。今後は左打者には外角を投げてほしいとのこと。
デルガドが打った球はプレート側に甘く入った内角速球だった。デルガドは失投を見逃さないタイプで、しかもあの時期は当たりに当たっていた。
常時内角に投げて打者を打ち取っている間はだれもなにも言わない。
しかしこちらのミスで打者が大儲けしようものなら、突如として手のひらが返り、おまえのゲームプランそのものが間違っていたと糾弾されるわけだ。
失投というやつは配球とはほぼ無関係であり、すべては配球を執行する際に生じるミスといえる。
狙った場所に違う球が入ってもしばしば好結果に終わる。狙った球が違う場所にいったときはそうはいかない。

王監督は自軍のピッチャーの内角攻めを好まれるだけでなく、それが日本で成功する必要条件と信じておられる。
わたしが監督のお言葉をうかがってどれほど勇気づけられたかわかるだろう。わたしはここ日本で最善を尽くし、内角攻めに磨きをかけて自分のものととしたい。
それを常時行えるなら、きっと成功を収めることができると信じている。だめだったら、おそらくここにはいられなくなる。

全体ミーティングのあと、投手コーチのタダシ・スギモトを迎えて投手ミーティングが行われた。
こちらのほうはずっとリラックスしたミーティングとなった。ようやくチームお仕着せのスーツ姿でなくともよかったのである。
そのあとリックとわたしは個人的にスギモトさんと話し合った。
いつごろマウンドから投げたいか、打者相手のピッチングの用意を整えるのにどの程度時間が必要か、そういう話し合いだ。
われわれ外国人選手は優遇されているわけで、日本流ではなく自分に合った自分流の調整法を採用していいとのこと。
わたしとしては日本側の厳しい要求にびしっと応えてやりたいと思う部分もあるのだ。
しかしシーズン前の調整として、それがベストではないだろうとわかっている。
こちらの投手たちはアメリカの投手たちよりも投球数が多い。あれについていこうとするときっと問題が生じるだろう。

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2月1日


感動と興奮のキャンプがついに本日始まる。だからといってわたしが午前4時に起きる理由にはならないわけで、ようするに時差ぼけが完全に収まっていないのである。
だんだん良くなってはいるが、いまだ完璧とはいえない。二日前、わたしは午後6時に寝て午前0時に目を覚ました。
夕食を食べそこなってしまい、ルームサーヴィスも終了していた。さらにその後は眠れず徹夜してしまったから最悪である。
あげくにホテルの朝食サーヴィスが始まるまえに出発することになり、結局15時間、なにも食べずじまいだった。それでも徐々に時差ぼけを克服しつつある。

わが一日は心地よいお笑いで始まった。春季キャンプ中、チームの朝食はホテル内のビュッフェで採ることになっており、みんなカジュアルな服装で集合する。
そこにアメリカ人のチームメイト、アダム・ハイズデュがほぼ完璧なユニフォーム姿で現れたため、一同大笑いとなった。
35歳のベテランをがちがちに緊張したルーキー扱いしてからかったのである。

春季キャンプ施設に向かうバスが2台準備してあった。場所はホテルから20分程度のところにある。
ところが、この2台とは喫煙者用バスと非喫煙者用バスなのだ。アメリカではこんなものは見たことがない。
聞くところ日本の選手の半数は喫煙者であり、ゲーム中すらタバコを吸う者も多いとのこと。

施設に向かう途中、アメリカ人投手リックが日本人チームメイトと会話を試みた。が、どうもうまくいかなかった。
話かけている相手を人気者のショートであるムネノリ・カワサキだと思い込んでいたため、ずっとかれをカワサキと呼びつづけていた。
しかしその選手は実のところホークスの十年選手ヒロシ・シバハラだったのだ。
リックがカワサキと呼びかけたとき、ああ間違えてるとわたしは思ったのだが、もう手遅れだった。
シバハラはちょっといらついた表情で「カワサキ」といい、それからバスの後部座席を指差した。
いまだ球場にすら到着していないというのに、キャンプ初日からずいぶんと楽しませてくれる--少なくともわたしは楽しんだのである。

球場に到着してみると、グラウンドまでの歩道にファンが鈴なりだった。
大部分は十代の少女たちのようで、お気に入りの選手がバスから降りてくるたびに歓声をあげていた。
その反応は1960年代の記録映画に残るビートルズやエルヴィスのファンの熱狂を思わせる。
少女たちは狂喜しながら飛び跳ねているのだ。

キャンプ初日はとてもスムースに運んだ。練習開始をまえに王監督のスピーチがあり、外国人選手たちをよりよく知るようにとチームを激励された。
英語に磨きをかけるようにともおっしゃっていたが、こちらが少しでも日本語を学ぶ責任のほうが大きいように思う。
それでもお言葉がうれしかった。わたしは常にチームメイトをよく知ろうと努力してきたし、ここ日本でもそのつもりだった。
おそらくちょっと余計に時間がかかるかもしれないが。

またパシフィック・リーグの審判団のスピーチもあった。今年からアウトサイドのストライクをより多くとる予定とのこと。
それで投手陣の調整のためにブルペンではキャッチャーの後ろに立ってボール・ストライクの判定をしてくれるそうだ。
さらに本番を意識して腹の底から「スッッットライッッック!!!」と大声を出してくださるらしい。なんというか気が散りそうな。
先発要員として考える場合、わたしは最初のブルペン投球で抜群のコントロールを発揮できるとは思っていない。
旅行その他のおかげで最後にマウンドに立ってから一週間以上たっているし、もともとコントロールはよくないのだ。
日本で最初のブルペン投球を行って、アンパイヤがただ沈黙を守るの図というのはどうにもいただけない。
ブルペン投球から外されるといった事態が有り得るのかどうか知らないが、アンパイヤがわたしのストライクゾーンを認めてくれないということになれば、ちょいとばかり話があるぞ!

キャンプ初日は比較的静かに終わった。キャンプ後半では日本人選手と同じメニューをこなすことになるだろう。
わたしが知るメニューとは明らかに異なる代物だが、それもまた日本文化の反映そのもののように思われる。
ところで明日はわたしの最初のブルペン投球だ。マウンドにあがるのが楽しみでならない。

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February 2nd

初めてのチームでの最初のブルペン投球となれば、第一印象は良くしておきたいと誰もが思う。
しかしわたしの場合、なんとしても投手コーチのスギモトさんに納得していただきたかった--役に立つ選手を獲得したのだ、と。
ブルペン投球は衆人環視のなかで行われるため、ときに困難を伴う場合もある。
監督がどう思っているか、キャッチャーがどう思っているか、そんなことを気にしながら投げてしまうわけだ。
しかしそれでは真に投球に集中しているとはいえない。精神をひとつのことに集中させなければならない。
これをスポーツ心理学で「服従」と称するらしい。

だいたいのところわたしはこの陥穽にはまらずにすんだと思う。
ずいぶん昔に、自分にコントロールできることしかコントロールできないという結論に達しているのだ。
いわゆる発想の転換というやつである。しかしわたしは今日のブルペン投球で他人の評価を求めてしまっていた。
新しいボスに自分の技量を知ってもらいたい、好印象を与えたい--そういうことをまったく考えずにいるのは不可能だと思う。

肉体面では力がみなぎる感じだった。だからマウンドに登るときは、かなりの球速が期待できるとわかっていた。
わたしの場合、コンスタントにストライクが出るかどうか、それがミステリーなのである。
マウンドはわたしが慣れ親しんでいるものよりも柔らかめだったが、ちょっと調整すればいいくらいで、どうしようもないというほどではない。
今回のセッションで45球を投げたが、自己採点はC+だった。もっとストライクをとれればよかった。
アンパイヤはできるだけ無視しようとしたが、これが難しかった。本番だったらシンパン(すなわちアンパイヤ)に対して一言二言あったかもしれない。
日本のアンパイヤはアメリカの同業者よりも批判に寛容であると聞いてはいる。
ならばわたしもどのあたりがぎりぎりの境界線なのか、慎重に探り出さねばならない。ちょうど両親の我慢の限界をさぐろうとしている子供のような感じで。

ブルペン投球がおわるとすぐに、わたしはレイクでマウンドをならして土をもとに戻した。
アメリカならグラウンド係員の仕事だが、ここではどの投手もやっている。
スギモトさんとブルペンコーチのタカヤマさんが「ぐっどじょぶ」という言葉でわたしの投球を誉めてくれた。
礼儀正しい仕草でわたしの気分をよくしようとしてくれているのであり、これはありがたかった。
その後聞いた話では、スギモトさんはピッチャーに大変きびしい人だそうだが、わたしの技量には大変満足しているとのこと。
わたしの最初の投球で喜んでいただいたとは意外だった。ここは調子にのらずに、次はもっとうまくやろうと考えるだけにしておく。

ブルペン投球が終わったあと、小規模の記者会見が行われた。
大変上手な英語を話す記者のひとりから、スギモトさんがわたしを先発要員と考えていると言われた。
そしてわたしの反応を聞いてくるわけだが、こちらは「王監督の希望にはすべて応えたい、チームの勝利のためにはなんだってやる」と答える。
自分のためじゃない、チームのためにここにいるとも言ってやった。
うちの先発ローテーションはとてもよく、必要とされているのは後の回の左のリリーフであると前もって聞かされていたから、模範解答をするのは簡単だったのだ。
そりゃあ再び先発に挑戦するというアイデアは嫌いじゃないが、この老骨につとまるかどうか正直不安である。

その後通訳の一人から教えてもらったが、新聞にはわたしのブルペン投球を誉める記事が掲載されたという。
自分の写真が日本語に囲まれて日本の新聞に載るのを見ると、ちょっとした夢心地になる。まちがいなくスクラップブックに保存すべき代物である。


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