C.J.’s Kanji Blog
2007年4月14日 9:00 北九州の悪夢
あなたはこんな経験をしたことがあるだろうか。
不安でたまらなくて、何から何までうまくいかなくて、恐怖さえも覚えるような経験を。
そしてすぐさま目が覚めて安心するのだ。それが悪夢だと気がついてね。
今朝、目が覚めた私は願った。私の悪夢も覚めてくれればくれればいいのに、とね。
大いなる私の狼狽の原因の全ては昨夜に起きた。それはあまりに過酷な現実であったのだ。
ホークスはヤフードームから車で1時間未満の距離にある人工100万人の都市、北九州に遠征に出ていた。
ロッテマリーンズとの対戦は地方球場で行われたのにも関わらず、レギュラーシーズンゲームとして開催されたのであった。
アメリカ人であり元メジャーリーガーの私にとって、これは非常に特異な経験であった。
この地方球場の施設環境はまさにアマチュアレベルなのだ。
ホークスはキャンプの期間中、様々な地方球場でエキシビジョンマッチをこなし、
私は1軍の選手達があのような環境であっても野球をすることに驚いた。
我々のチームが一体となってあのような場所で試合をすると私が知ったときの事を考えてもらえば、私の驚きの程を理解できるだろう。
これは球場が悪いという話であって、チームメンバーが悪いという話しではない。
もし私が高校生や大学生であったのならば、そのような場所でも十分だっただろうが、メジャーリーガーにとっては調子を悪化させることになるだろう。
ヤフードームは実に素晴らしい球場である。
ヤフードームから北九州へ行く事は最高級のフィレミニョンを食べてかハンバーガーヘルパーを食べるようなものだ。
試合の前にスギモトさんからその晩の投球に備えてマウンドを見ておいたらと言われた。いきなりだと驚くだろうというのだ。
そこで言われたとおりにマウンドに立ってみた。そしてただひたすら登板機会がないようにと祈った。
腕が痛いといういつもの仮病を使うことも考えたが、それはやめようと決心した。
私は本当に日本のマウンドに不具合を抱いていなかったのだ。
外国人の投手が持つ懸念の1つとして、どうやって土の柔らかいマウンドに対応するかというものがある。
本当にこの懸念は私にとって問題では無かったのだ。しかし、あのときばかりは問題になったのかもしれない。
その試合は始まり、序盤からこの試合が長くなることを予感させる展開となった。最高の先発陣の1人であるスギウチは、立ち上がりから良くなかった。
彼は春期キャンプから39イニング無得点を続けていた。要するに彼は我々にとって"lights
out"であった。
そんな彼にしては荒れた立ち上がりであった。
彼は4イニングを投げて4失点を喫していた。それは彼にとって非常に珍しい事ではなかったのだ。
我々が問題を悪化させたのは、ストライクゾーンが非常に窮屈だったからだった。
私が日本に来る前に聞かされていた話では、日本のストライクゾーンは非常に窮屈ということであったが、私にとっては快適なものであった。
この日までは。
北九州の環境はピッチャーにとって完璧なる嵐であると言えるだろう。
そのストライクゾーンの不安定さは小さな球場の低いマウンド上で、まるで旅をするかのように変化していったのだった。
試合展開はめまぐるしく変わった。
バックは第1打席と第2打席で2本のホームランを打ち、2本目を打った後私にこう言ったのだ。
「もしこれがドームの試合だったら、俺はシングルヒットを1、2本打っただけだろうね」
しかし、そうならず彼はこの狭い球場で2本のホームランを放ったのだ。
このゲームは永遠に続くように思われたのだ。
8回にランナーを1塁と2塁に背負った場面で私の登板機会が訪れた。
私はある良いピッチャーの後で、一人目の打者をフォアボールで歩かせてしまったが、
その次の打者をゴロに打ち取り危機を切り抜けることができた。
私は自分が四球を与えてしまった事に対して怒り狂った。
私は過去2年間、自分に与えられた指令をこなすために厳しい練習を課してきたのだ。
フォアボールで打者を歩かせてしまうなんて事になれば、自分で自分が許せなくなり憤るのだ。
そして9回が始まり、私は9番打者に対し全くもって劣悪な球を投げ4球でフォアボールにしてしまった。
私は自分の調子が悪い事を知っていたが、なんとか集中して一生懸命アウトを取ろうとしていた。
次の打者はバントをしようと試みたが失敗し、そして捕手は裏をかくサインを出した。
捕手はカットボールだと思っていたが、私が投げた球は速球であった。
その捕手と組むのはその日が初めてで、彼は先日2軍から上がってきたばかりであった。
その速球は彼の利き腕に当たってしまったのだった。
ホークスは代打交代で既に捕手を2人使っており、彼はベンチに残る最後の捕手として試合に出てきたのだ。
2塁ランナーは三盗をし、さらにその打者は内野手の頭を越えるポテンヒットを放った。
内野手が後ろに下がって捕球するには、打球の勢いが弱すぎだったのだ。
そして次の打者はフォアボールで歩かせた。私は精神的にも肉体的にも闘っていた。
私の集中力は下がっていて、さらに球を投げれば投げるほど私の怒りは増幅していったのだ。
さらに違う打者をフォアボールで歩かせた後、ヒットを打たれ、さらにボークと宣告された。
そのゲームは私にとって完全に悪夢だった。
この春のキャンプで私は1回しかフォアボールを出さず、
シーズンに入った後も5試合に登板し仕方のないフォアボールを1つ出しただけであった。
そんなフォアボールが一試合に4つも出たことは私を苛立たせたのだ。
ここで私は審判と話し合い、そして投球フォームに関しては何の助けも求めなかった。
ここ数回のイニングからこの審判がどんどん独断的になっていると私は感じていた。
これは完全に混乱を招いた。
私は最終的に2つ失点で自責点1、4つフォアボールを許し、1奪三振、1本のヒットを打たれたのだった。
それは私が初めて許した失点だったのだ。
私は何かについて非常に明快にしておきたい。
どんなピッチャーも仕事をやり遂げるための課題や障害に直面せねばならない。