わがためにあらず(汝のためにもあらず)


「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」。
コロサイ人への手紙 3章23−4節

2008年8月22日 仙台

この数ヶ月間に起きたことを蒸し返してみると、自分という人間のことがよくわかってしまう。日本でプレイすることによってわたしの身に変化が生じてきた。日本での選手生活がわたしにもたらしたポジティブな面は山ほどある。しかしいま話したいのはネガティブな変化の件なのだ。

合衆国でプレイしていた過去数シーズン、クリスチャンとしての信仰を通じて悟ったことがある。すなわち自分も自分のキャリアも、すべては自分には関係がないのだ。クリスチャンの信仰では、われわれがなすことはすべて主と主の栄光のためであって、われわれの栄光ではないとされている。この信仰はわたしの人生、仕事、家族、すべての領域をカバーしているといってよい。

ここまで悟ってしまえば、人はすべてから解放され、物事を十全に楽しめるようになる。仕事すら楽しくなり、利己から無我の境地に至れるのだ。さらに人は失敗がもたらす失望からも解放される。この信仰を通じて人生は真の意味を持つようになり、人生の山や谷の意味もよりよく理解できるようになるからだ。だからといって仕事に失敗しても痛みも悩みもないというわけではない。失敗の意味と位置を見通せる視座が得られるということだ。わたし個人にとっては、自分のキャリアの意味がより明確になり、野球というゲームをより大いなる目的をもってプレイできるようになった。わたしは野球を楽しめるようになり、同時に競争心も増したのであった。

しかしこのところ、わたしはつまづいていたのだ。自分のことだけしか考えないようになってしまい、わたしが仕える神へ心を寄せる度合いが減っていた。結果として訪れるものは屈辱という苦い薬であり、それが転じて祝福となり、わたしがもっとも満ち足りる場所へと帰還するきっかけを作ってくれるのである。

シーズンが進むにつれ、わたしは自分の成績にあまりに心を奪われてしまい、どんどん利己的になっていた。なにが一番大切か、なぜこのゲームをプレイしているのか、そういったことに対する集中力を失っていた。悪戦苦闘が始まると、わたしは緊張し、怒りだし、責任転嫁を始めてしまっていた。まずい状況に陥っても、自分で責任をとるということをしていなかったのだ。以前はまずい投球をしてもカーブが曲がらなくても、問題ではなかったのだ。わたしが過去数年で学んだことは、野球の出来不出来にかかわらず主を信頼するという姿勢だった。そしていままで、この姿勢はプレイして勝ちたいという情熱に水を差すことはなかったのである。

ここまで事態を放置していた自分が残念でならないが、まだシーズンに残り時間があるのはありがたい。わたしが踏むべき次のステップは、メンタル面を強化したまま今シーズンを終えることにある。自分の視座を失ってはいけないし、来年のことなどに心を奪われてもいけない。まして野球が与えてくれる金銭的報酬をモチベーションにしてはならない。つきつめれば、なにごともわがためにあらず、ということを心に刻まねばならないのだ。